石灰のおはなし

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高知の石灰は品質NO1! ~高知の石灰業の歴史より~

石灰以前は貝殻を焼いていました

昔は、石灰鉱山から石灰岩を採掘するということをしていませんでした。牡蠣やしじみの貝殻などを焼いてつくった「貝灰(かいばい)」が石灰の代わりでした。(貝殻は炭酸カルシウムでできているので、焼くと生石灰ができます)土佐の国で貝灰が行われ始めたのは、今から約420年前、江戸時代・慶長年間のことです。山城の国松尾(現在の京都府)から、権能右衛門という人が貝灰の製法を土佐に伝えたそうです。

不景気に困窮していた呉服商の決心

その後、今から約300年ほど前の江戸時代・享保年間。第八代山内豊敷公が藩主の時に、高知城下で呉服商を営んでいた美濃屋忠左衛門と、大和屋三右衛門の両名が、本格的な石灰の製造を始めたと言われています。
その当時の日本は不景気で、特に呉服商は商いがまったく振るわなかったそうで、二人は困り果てていました。

ある時、二人は商用で京都まで出かけ、宿に泊まった際に居合わせた美濃の国(現在の岐阜県南部あたり)の人から「私の国では、石から灰を作り、濃州灰と銘打って盛んに売りだしています」という話を聞き、興味を持ちました。その後使いの者を美濃の国に派遣し、製造の仕方を学んだ後、藩に「願いの書」を出し、石灰製造の許可を求めたそうです。

三右衛門たちは1730年(享保15年)に藩から許可を得て、長岡郡介良村や下田村(現在の南国市稲生。井上石灰工業の本社とプラントのある地)にて「濃州灰」の製法を用いて石灰石を焼き始めました。
土佐国の史料「南路志」に、「下田村にて製するは馬骨石を焼き風化す。享保十四年初めて製し上方(現在の関西)へ売る」と記されています。

阿波国・徳右衛門から伝授された竈焼

さらに、1800年(寛政12年)阿波の国(現在の徳島県)の徳右衛門という人が四国霊場巡拝の途中、生き倒れを助けてもらった御恩報じにと、石灰を焼く竈の築き方、製造方法を伝授しました。この徳右衛門から伝わった製法で、土佐は全国有数の石灰産地として発展してきました。稲生ではこの徳右衛門の功績を讃えて記念碑を建立。今でも当社近くの橋のたもとに残っています。

徳右衛門は、その後阿波の国に戻りましたが、国の秘宝である石灰の製法を土佐の国に売ったものとして、地元から追放をされてしまいました。放浪の末、土佐国東部・羽根の柳生金十郎康利の家に世話になりました。そこで再び徳右衛門は石灰製造の秘宝を柳生家に伝授しました。

その後、柳生金十郎康利は、美濃屋と太和屋の居る下田村に移り、柳屋という屋号で石灰製造を始めることになります。その際、櫻屋(入交太三右衛門)が資金援助をしたそうです。(後に柳屋は櫻屋に石灰製造の権利を譲ることになります。)

粗悪品の流通が原因で土佐石灰の評価が下がる

下田村の石灰製造は順調な伸びを見せましたが、下田村の隣に位置する衣笠村の銀八という者の製造する石灰が粗悪品、しかも多く出荷をしていたため、上方での土佐石灰の人気が落ちてしまいました。1811年(文化8年)のことです。
上方での値段が下落してしまい、ここからしばらくの間は地元での商いを主とし、起死回生を待っていました。

新たな体制と新たな用途

商いが停滞している間に、経営に変化がありました。
土佐石灰をスタートさせたうちの一方・美濃屋が1816年3月(文化8年)に石灰業の権利を萬屋助八に譲り、柳屋も1819年(文政2年)に櫻屋に譲り渡しをしました。

新しい体制が整えられる中、隣国・阿波国の石灰は稲作の肥料として使われており、良い評判を得ているとの話が流れてきました。そこで、土佐国でも石灰を肥料に使うことを農家に薦めたのですが、不安がられてしまい使用するに至りません。
そこで、農家に「石灰を使うことで稲作に支障があった場合は弁償をする。土地に損傷があった場合は代わりの土地を渡す」という約束をしました。結果は上々となりました。この件に関しての献身的な努力で、櫻屋は以降、大きく発展することになりました。

何事にも一長一短がある

石灰が肥料として有効であることがわかると、需要が激増しました。しかし、農家がそれぞれに焼窯を構えて自ら石灰の製造を始めるという現象が起きました。しかも、作った石灰を自家用としてだけではなく、それで商いを始める者も中には出てきました。
そこで、石灰製造の権利を持つ櫻屋をはじめとした5名は、1838年(天保9年)に農家の石灰製造を差し留めるよう、藩に願い出ました。

その後もさまざまな困難を強いられました。石灰を上方へ流通させているのは土佐の国だけではありません。流通量が増加すると当然ながら値下がりが起こります。あの手この手で交渉を重ねて商いを続けていきました。

明治維新がもたらした好景気と製造方法の転機

政治が幕府の手から離れた1868年、明治維新は、日本国内のあらゆる産業界に大きな発展をもたらしました。石灰も例にもれず、需要が次第に増加し、販路が拡張していきました。幕末の頃と打って変わって、生産が追い付かなくなりました。
従来の設備や製造手法では需要に応じきれなくなり、改良の必要に迫られました。

燃料を木炭から石炭に

画期的な改良ができたのが1885年(明治18年)です。
それは「石灰焼成の燃料を従来の木炭から石炭に変える」という、石灰製造業者の中に居た島田小平の策でした。木炭では竈の温度は800℃が限界なのに対し、石炭の場合は1,200℃まで上昇するため、効率が上がり大量生産が可能となります。
しかし、この策も最初から成功したわけではありません。
木炭から石炭への変更で一番大変だったことは、竈の再築でした。今までの竈では1200℃の温度に耐えられません。
竈の再築には、地元で「竈つき博士」と呼ばれていた北村富太郎が関わりました。
北村富太郎の協力を得て、深さ7.5m、口径0.9mの竈が仕上がりました。石灰の焼成竈は徳利(とっくり)型といって、穴の途中の口径に変化があります。中央部の最大直径は1.65mもあります。ちなみに、従来の木炭用は深さ1.5m、口径は0.84mでしたので、竈の容量にかなりの違いがあるのは一目瞭然です。
また、この頃から使用に塩を加えることをはじめました。

井上石灰工業の前身が誕生

土佐石灰大改革が起こった最中、1884年(明治17年)に、当社が個人商店として産声を上げました。1920年(大正9年)の石灰製造業調査では、竈数11、倉庫数45棟(1600坪)という高知県下トップの施設を持つ石灰製造会社となっています。
多くの石灰工場が焼成を電子制御にする中で、当社はこの当時の製造方法に今もこだわり続けています。



土佐石灰はその後も躍進を続けました。特に品質は高評価を得ております。
1907年(明治40年)前後、工学博士で、明治・大正期の中央官庁の一つ農商務相(今でいう農林水産省の類)や東京工業試験場勤務経験のある越知圭一郎という方が下田村を訪ねてこられました。越知氏が下田の石灰石を分析し、「私が訪問したことのあるドイツ、イタリア、フランスなどの6カ国には、こんな良質の石灰石はどこにもない。私の知る限りでは、下田村の石灰石は世界第一である」と絶賛されたそうです。

越知氏が絶賛した下田村…今の南国市稲生での石灰原石採取は1991年に終止符を打ち、現在の土佐石灰採取は高知市土佐山をメインとしています。
しかし、井上石灰工業の焼成竈は、稲生の地で今もなお静かに赤い熱を放ち続けています。

(参考 井上石灰工業130年記念誌)

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